素敵な家族と股間ニキ『テオレマ』の考察/Teorema(1968)
今回は『テオレマ』ですよ。
引用元:https://www.imdb.com/title/tt0063678/ (R6/2/26) |
1968年、イタリア、パゾリーニ作品。
考察記事なのでネタバレ不可避です。ご了承ください。
また、露骨な性表現を避けるために言葉のチョイスが変な個所が散見されますがご了承下さい。意図的です。
あらすじは?
羽ばたく郵便屋が届けた電報には、
「明日着く」
と。
やってきた男の股間が4人家族とお手伝いさんを夢中にさせます。
また羽ばたく郵便屋が届けた電報で、
「出ていきます」
と。
そして家族のメンタル崩壊が始まります。
みどころは?
勝手に夢中になる家族と、その後の崩壊が楽しい映画です。
90分程度と見やすい長さで、音楽も素敵。
4k化され映像もきれいです。
5人の変化
とても有名な作品であり、既に色々語りつくされているようです。
それはそれとして、今回は現代的に映画から得られる情報を頼りに彼らの変化について考えてみました。
注:当記事での”股間”とは、ほとんどが股間ニキの事を指しています。
お手伝いさん
大股開きに目を奪われた彼女は、お掃除というレベルで彼の体に触れました。
遠すぎると感じたのか彼女はそのまま自殺します。
しかし、なぜか即座に気づかれて阻止。
憧れの股間と結ばれます。
その後の彼女は仕事を辞めて田舎に帰ります。
そこで彼女は屋根の上で浮いてしまいました。
まるで奇跡のよう。
この偉大な変化を与えたからか、股間はキリスト的な存在だと語られる事が多いようです。
僕はそうは感じませんでした。
市民を浮遊させる力を与えることが神の影響とは思えないからです。
彼女の意識が神に通じ、そのような奇跡を起こしたと考えるべきでしょう。
他の家族もそれぞれが異なる変化を迎えます。
変化は人それぞれであり、股間はきっかけに過ぎず、変化自体は各個人が起こしたものだと考えられます。
娘
手を握ったまま硬直してしまった彼女。
謎の症状であり、医師もさじを投げます。
極度のストレスがそうさせたという事だと感じました。
残念ながらそれ以上の事は思いませんでした。シンプルな変化です。
母
似たような若い男性との関係に溺れる彼女。
しかしながら当然、満たされないようです。
とはいえ、男遊びに目覚めたこと自体を悲観する様子はありません。
あくまでも股間が恋しいという感情に支配されているように見えます。
息子
女性と交際していたようですが、なぜか股間の虜になる彼。
彼の中にはどのようなどんでん返しがあったのでしょうか。
女性家族達とは異なり、性対象が越境してしまったのですから、彼の変化は非常に大きいはず。
50年以上前という時代を考慮すると、今以上にこの変化は「異常」なものとして描かれたはずです。
つまり、異常なほどまでに人を変化させる股間であるという描写に利用されることとなった息子氏。
それでも優しく受け入れてくれる股間ニキ。
仲良く鑑賞するのはフランシスベーコンの画集。露骨に性器がモチーフとなっています。
もしかすると、時代的な事情から、彼らが性的関係にあることを分かりやすくするためのシーンなのかもしれません。現代の映画なら、分かりやすく描かれることでしょう。
そんな彼は、股間喪失後、芸術に目覚めようとしている様子。それが成功しているわけではないようなのがポイントです。
今後彼が物凄い作品を生み出すかもしれないし、ただのガラクタしか作れないかもしれない。
やはり股間はきっかけだったのでしょう。
父
なんといっても凄いのが父の壊れっぷり。
息子と同様、彼にも同性への熱視線が元からあったのかは分からないものの、夜中に息子が股間と同じベッドで寝ている姿を見てしまい、自分の股間まで熱くなってしまいます。
性別を超えた股間力、マジハンパねぇ。
父の場合、性対象の越境は分かりにくくマイルドに描かれています。
他の家族とは異なり、屋外なんですよね。
やらないか?
そんな声が聞こえてきそうです。
背の高い草むらで寝そべる股間に近づく父。これはもう、あからさまです。
はい。やってます。
父の性表現がマイルドなのもやはり、時代的な事情、もしくは監督の好みでしょうか。
しかしその後、駅での行動が弾けてしまいました。
股間ニキ同様、股間で主張するメンズが目に入ってしまうのです。
それ、もう普通にゲ…げふんげふん。
父、既に対象が男になってしまってます。
更にメンズがトイレにいざなうと、父のメンタル崩壊。
ここがある意味でこの映画最大の大波到来です。
てっきりメンズに付いていくのかと思いきや、往来の中でゆっくりと全裸になったのですから。
この行動には( ゚д゚)ポカーンとなるしかないでしょう。
恐らく彼の中でモラルが完全に崩壊したのです。
家族の長、企業の長、男性的な威厳、彼なりの既存の定理が全て崩れてしまったと見えます。
その変化はたった一人の股間からでした。
そして彼は荒れた台地をさまよい叫びます。
このラストシーンには2つの印象があります。
1つは、股間恋しいよー!!!!!!!!!
股間ニキが恋しすぎてじっとしていられない状態です。
なんせ、他の男では満足できずモラルハザードが起きてしまったのですから。
あいつじゃなきゃダメなんだ!というアンチテーゼマックスな状態です。
もう1つは、股間寂しいよー!!!!!!!!!!!!
股間不在が寂しすぎてじっとしれいられない状態です。
なんせ、自分が大事にしていた常識が全てなくなってしまったのですから。
あれ?なんか2つとも同じだな…?
そうなんです。似ているけど違うんです。
2つ目というのは、欲情を含まない彼の常識の崩壊に耐えられず吠えているという感じ。
どちらか1つというよりは、両方合わせてうおおおおおおおお!!!!かもしれません。
総合的な変化
なぜ、父だけがあそこまで、奇行種の巨人のようにおかしくなってしまったのか。
5人は全員が性的な誘惑に負けてしまいましたが、事情は異なります。
女性三人には、性的な越境がありません。せいぜい、母には不倫という罪が乗りますが、娘にはそのような負い目はないのです。ただただ、欲望に身を任せ、股間ニキの喪失感に悶えるばかり。
娘は悶えるどころか硬直してしまいましたけれども。
彼女にとって、ニキの股間がないならもう生きる意味がないのでしょうから、それは彼女にとって正解なのです。
お手伝いさんは股間に到達した最初の一人でしたが、ニキがいなくなるのと同時に田舎へ帰りました。そのまま仕事を続けるのが耐えられなかったのでしょう。
他方、男性陣は複雑です。
性的な越境をしてしまったのですから。
息子はそのストレスを自身の芸術センスに昇華させたようですが、それはまだ彼が若いから。まだまだ定理なんてものは構築されていないのです。
最も定理ダメージが大きいのが父であることは間違いありません。
息子との性的な関係を目にして自分も欲情してしまったのですから、葛藤の処理が追い付かずにサーバーダウンは不可避。
もしかしたら息子の彼氏を寝取ったという負の感情までもが存在したかもしれません。
更に見知らぬメンズにも目を奪われ、自分の社会的地位が崩壊。
だからこそ、会社を労働者に譲り渡したのです。
映画の中のキーワードを引用すると、ブルジョワジーの崩壊まで起きていたのです。
父親としても男性としても、彼が負っているものの喪失が、この年齢まで来ると耐えがたいどころの程度を超えているのは想像に難くありません。
それが結末のうおおおおおおおお!!!!なのです。
股間ニキ
5人にそれぞれ異なる変化のきっかけを与えたニキとは一体何者だったのでしょうか。
手紙の主がヒントになります。
少なくとも2通目の手紙は、映画に映っていない第三者が送ったものです。
「明日着く」で済んだ1通目は、それ以前から何らかの会話があったと思ってよいでしょう。
しかし監督としてはそんなことはどうでもいいのでしょうね。
観客の想像に任せたのです。
想像に任せたから、彼についての情報や背景が一切ないのです。
だから彼が誰であるかはどうでもいいのです。観客にとってもです。
そこで重要になるのは彼が何者かより、彼が何をしたのか、です。
彼は、欲望に応じました。自分から迫ったわけではありません。
そして変化は各自の基準で起こっています。
つまり、彼は変化のきっかけしか与えていません。
何がそのきっかけを作ったのか?
それは、たびたび不自然にドアップで映る、
彼の股間なのです。
股間が人を変えてしまう。
時代が変わってもそれが人間であるならば不変の定理でしょう。
この映画のタイトルである定理とは、
崩壊してしまった定理以上に、崩壊しない定理を指しているのかもしれません。
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