素敵な家族と股間ニキ『テオレマ』の考察/Teorema(1968)

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今回は『テオレマ』ですよ。 引用元:https://www.imdb.com/title/tt0063678/ (R6/2/26) 1968年、イタリア、パゾリーニ作品。 考察記事なのでネタバレ不可避です。ご了承ください。 また、露骨な性表現を避けるために言葉のチョイスが変な個所が散見されますがご了承下さい。意図的です。 あらすじは? 羽ばたく郵便屋が届けた電報には、 「明日着く」 と。 やってきた男の股間が4人家族とお手伝いさんを夢中にさせます。 また羽ばたく郵便屋が届けた電報で、 「出ていきます」 と。 そして家族のメンタル崩壊が始まります。 みどころは? 勝手に夢中になる家族と、その後の崩壊が楽しい映画です。 90分程度と見やすい長さで、音楽も素敵。 4k化され映像もきれいです。 5人の変化 とても有名な作品であり、既に色々語りつくされているようです。 それはそれとして、今回は現代的に映画から得られる情報を頼りに彼らの変化について考えてみました。 注:当記事での”股間”とは、ほとんどが股間ニキの事を指しています。 お手伝いさん 大股開きに目を奪われた彼女は、お掃除というレベルで彼の体に触れました。 遠すぎると感じたのか彼女はそのまま自殺します。 しかし、なぜか即座に気づかれて阻止。 憧れの股間と結ばれます。 その後の彼女は仕事を辞めて田舎に帰ります。 そこで彼女は屋根の上で浮いてしまいました。 まるで奇跡のよう。 この偉大な変化を与えたからか、股間はキリスト的な存在だと語られる事が多いようです。 僕はそうは感じませんでした。 市民を浮遊させる力を与えることが神の影響とは思えないからです。 彼女の意識が神に通じ、そのような奇跡を起こしたと考えるべきでしょう。 他の家族もそれぞれが異なる変化を迎えます。 変化は人それぞれであり、股間はきっかけに過ぎず、変化自体は各個人が起こしたものだと考えられます。 娘 手を握ったまま硬直してしまった彼女。 謎の症状であり、医師もさじを投げます。 極度のストレスがそうさせたという事だと感じました。 残念ながらそれ以上の事は思いませんでした。シンプルな変化です。 母 似たような若い男性との関係に溺れる彼女。 しかしながら当然、満たされないようです。 とはいえ、男遊びに目覚めたこと自体を悲観する様子はありません。 あくまでも股...

全謎解説『もう終わりにしよう』ネタバレ解説・感想・あらすじ/I'm Thinking of Ending Things (2020)

ようこそ。今回は『もう終わりにしよう』に残された謎の解説ですよ。

引用:https://www.imdb.com/title/tt7939766/mediaviewer/rm1053666561


『もう終わりにしよう』は2020年のNetflixオリジナル映画。本が原作です。

前回の記事では、全体を通して男女の世界が用務員の想像の世界であるという証拠を解説しました。

前回の記事

また、これら2つの記事では映画に登場する実名などのまとめと、多すぎて拾いきれない不可解リストを資料的にまとめました。

資料記事1

資料記事2

今回は、残された謎の回収と、もう1つの仮説について解説していきます。とても長くて、非常に突っ込んだ内容になっていますので、映画を繰り返し観た方が対象になると思います。

前提

今回、ある大事な前提をお伝えします。

用務員=ジェイクという説が主流になっているようですね。

しかし、映画の描写において、一度もそれを確定するものはありません。

用務員の見たものが投影されている事は間違いないのですが、用務員がジェイクだとする証拠は一切ありません。

後で解説しますが、用務員の実家は豚を飼っていません。羊も飼っていません。(その証拠となる映像があります)

想像の世界は、実は用務員が想像を楽しんでいるのではなく、用務員の脳内で勝手に作り出された「別の世界」です。その世界の存在に、用務員は気づいていません。

それを前提として解説を進めていきます。

しかし分かりやすさを保つため、「別の世界」ではなく、引き続き「想像の世界」として進めていきます。

実家までの道のり

冒頭での一人語りで、「若い女性」は後で来るジェイクの発言を予言しています。それ以外の事項については旅立つ前の予想にとどまっているので、それは予言的な発言と見てよいでしょう。

女性の思考はたびたびジェイクに感づかれます。内容が知られるわけではなく、直感的に感づいているようです。

これは「女性」対「ジェイク」という関係ではなく、「女性」対「想像の世界」という構造であるためです。(後述)

ジェイクは想像の世界を構成する一部ですが、女性はそうではありません。想像の世界という環境の中にある、自我を持つ一人の人格です。ジェイクには自我がありません。

この映画の主要な人物で自我を持つ者は用務員と女性だけです。

「若い女性」は特定の名前を持ちません。

女性の名前を含め、用務員の目にした現実世界によって、想像の世界は影響されていきます。

最初は会話の流れから「ルーシー」が自分の名前だと言いました。名乗ったわけではなく、ジェイクの発言に「乗っかっただけ」です。

想像世界の成り立ちは、用務員が目にした現実世界の影響を受けている事が明らかです。しかし、用務員が自主的に想像をしているのではなく、想像の世界は勝手に動いています。用務員が目にしたものの影響を受けながら。

ジェイクは、世界の不自然さを認めません。女性は積極的に気が付きますが、ジェイクはごまかすかのように受け流し、女性に同調はしないのです。

これは、ジェイクが想像の世界が用意したモブキャラである事の証明です。想像の世界を作り出している「何か」は、世界の不自然さを女性に気づかれないようにしているようです。

その、想像世界を作り出している「何か」とは、例えばパソコンのOSのようなものです。

より具体的には、オンラインゲームを思い浮かべてみて下さい。オンラインゲームには、ゲーム世界の作り出すPCキャラと、人間が操作しているNonPCキャラがいます。

ジェイクはPCキャラであり、「若い女性」はNonPCキャラなのです。

ジェイクは、用務員の知識や意識が強く反映されていて、まるで用務員そのものであるかのようにも見えます。しかしそうではありません。

用務員の知識や意識が反映されてはいるものの、用務員とは別の人物として存在しています。ただし、自我を持たないモブキャラとしてです。

世界に異変があれば気が付くのがリアルな人間であり、そのような人物は「若い女性」だけです。

例えば、廃屋の前に新しいブランコがあった事を女性はおかしいと思いますが、ジェイクはそんなものは見ていないだとか、引っ越す前にブランコだけ用意したのだろう、と不自然な返事をします。

これは、女性が言う通り、「わざと見ないふりをしている」のです。これらの出来事は、ジェイクは自我のある存在ではなく、想像世界が作り上げたPCキャラである事を示しています。

いいや、用務員=ジェイクだよね?と思う人が多いのではないでしょうか。しかし、ジェイクとは別に用務員が登場する場面があるのです。記事の後半では、ジェイクは用務員とイコールではないと思われる解説をしていますので、今はいったん先に進みましょう。

「若い女性」が自我のある存在というのはどういう意味でしょうか?自我という言葉は少し分かりにくいですね。

多重人格ならば皆さんよくご存じでしょう。

ひとことで言えば、「若い女性」は用務員から独立した別の人格です。

しかし、よく知られた多重人格とは異なります。

映画で見かける多重人格は、表面に出てくる主人格が交代します。主人格ではない時のその他の人格は眠ってしまうか、体の支配権を持たずに中から現実の出来事を観察するかのどちらかとなります。

それらについて意識するべき特徴は、いずれの人格も、何が現実であるかと、自分たちが多重人格である事を自覚している点です。

用務員は、人格が切り替わる事はありません。常に主人格です。

他方、「若い女性」は用務員の体の中に生まれたもう一人の人格ですが、主人格として登場する事はなく、常に用務員の脳内にある別の世界=想像の世界で暮らしています。

つまり、脳内の想像の世界から出る事のない閉鎖的な環境の中に限定された特別な多重人格という事になります。

多重人格説は本作の解説として主流ではないように思いますが、それを思わせるキーワードは映画の中に明確に登場していますので、後ほど触れていきます。

このように、多重人格というキーワードを絡めれば、女性が用務員とは異なる自我を持つ独立した人格という意味が直感的に分かりやすくなるのではないかと思います。

なぜ、理想の人格が男性ではないのか?なぜ、主人格として表に出てこないのか?これらについても後ほど分かるようにまとめていますので、いったん先に進みましょう。

多重人格

一般的によく言われる特徴として、多重人格における別人格というのは、みんなが同じ知識を持つのではありません。主人格が話せない外国語で話す人格を持つ場合まであります。

その仕組みは未解明ですが、主人格が日常で見たり聞いたりしたものの蓄積が、主人格に対してではなく、別人格に蓄えられているのかもしれません。

そのような想像が可能なシーンがあります。

「骨の犬」です。

女性は、自分が考えた詩としてジェイクに朗読します。

しかし、ジェイクの部屋に入ると、「骨の犬」が書籍である事を知ります。

女性にとって自分の思考だと思っていたものが、既に世界に存在していたのです。

これは、用務員が過去に読んだ本の記憶が女性の人格に取り込まれてしまったのだと考えられます。

しかし女性自身はそれを自覚する事ができないため、自分の知識だと信じており、書籍の存在に恐れを感じます。

車中での男女の会話には、用務員の人生観が反映されています。

用務員が普段感じているストレスなどが、ジェイクの発言として出てくる時があるようです。

その内容は、用務員が彼の人生で感じた寂しさが大半を占めているようで、ジェイクの年齢や肩書とは一致しません。あまりに感情的になりすぎる部分であるため、用務員の思考がそのまま漏れてしまっているかのように見えます。

ジェイクの本来的な役割は、理想である「若い女性」と釣り合いの取れた彼氏です。物理学者になろうとしています。老人の不満を漏らすのはジェイクの役割ではないのです。

このように位置づけると、女性には用務員の理想が詰まった最高の人物という役割が与えられ、その女性と付き合うジェイクは間接的に理想的な男性像となっている事が分かります。

これが、用務員が想像の世界で女性を主人公にして、ジェイクを理想化しなかった理由です。理想的な人間は女性に担わせ、それに対するジェイクに理想的な体験をさせる事が想像の世界の役割なのです。

しかしあくまでそれは自動的に行われています。用務員はその世界を認識していなかったのです。彼の長年の不満がその世界を生み出し、心のバランスを取るために脳内に存在していたのです。

そのような葛藤はループ階段のシーンに表れています。彼女は、ジェイクが認められるために自分がいるかのようだと考えるのでした。

映画論

女性とジェイクは車中で映画について語り合います。

ストーリーには関係がなく、監督のジョークのように見えなくもありません。

しかしそこにもヒントがあります。

「映画を観過ぎるのは世の中の病」
「嘘で脳を満たせばあっという間に時が経つ」
「クソ映画でさえ脳の中で成長して自分の思考と入れ替わるから危険」

3番目が特に重要です。

これは確かに事実であり、映画においては用務員が普段目にしたものが知らぬ間に自分の考えとして定着する事を示唆しています。

それは主に「若い女性」の思考を指しています。用務員が目にしたものは想像の世界に反映され、知識や意識はジェイクの発言に、理想的なものは「若い女性の人格」に集約していくのです。

実家

臭い場所

匂いについて何度か象徴的な発言があります。

女性は羊の住む場所が臭いと言い、濡れた犬の匂いをジェイクは繰り返し謝り、アイス屋の店員はニス臭さは嘘だと言います。

ジェイクの不自然は謝罪は、用務員が体臭を気にしている事の投影と考えられるところです。

重要なポイントは、ニス臭さが嘘だという会話でしょう。

その発端は、羊の住む場所です。

女性は、臭くて狭い場所で一生を終える事に陰鬱な感情を抱きます。

映像は、豚小屋の映像に続いて同じような構造を持つ学校の廊下が映り、用務員の生活を家畜に重ね合わせています。

つまり、家畜は用務員の生活環境の陰鬱さを象徴しています。更にアイス屋の店員が言った「ニス臭さは嘘だ」という発言は、女性に対する助言と位置付けられます。

店員は、ジェイクに悟られないように助言を与えようとしました。

ニス臭さは嘘であり、この先の時間には行かなくてもいいのだと言います。

これは、臭いの原因はニスではなく環境にある事を示しています。

臭う場所とは家畜小屋の事であり、そこは用務員の生活に紐づけられた、「一生そこで暮らさなければならない」という拘束性の象徴です。

これらが意味するのは、「若い女性」が暮らしている現実だと思っている世界が、実は用務員の脳内の閉鎖的な世界であり、女性がそこから外に出られない事を表しているのです。

ジェイクが用務員の化身であるならば、店員は「若い女性」の化身なのでしょう。だからこそ、ジェイクと同じ発疹がありながら、ジェイクとは立場が異なるのです。

ジェイクは想像の世界を維持しようとする、想像世界が用意したモブキャラであり、店員は「若い女性」が生み出した「そこが想像の世界だと気づかせる存在」なのです。

名前

女性に関する名前はいくつも登場し、用務員の女性名に対するバリエーションの少なさが垣間見えます。

最初はルーシー。女性自身が認めた自分の名前はこれだけです。

母はルイーザと呼び、その後ジェイクもそう呼びます。

その後ルイーザからの着信が確認されます。

架空の映画にイヴォンヌが登場すると、イヴォンヌから電話が来ます。

最終的にジェイクは女性を「エームズ」と呼びます。

このように女性名が何度も変化したり映画の影響を受けたりするのは、老人が想像の世界を常に見つめているわけではない事を示唆します。

想像の世界は、老人が見たものの影響を常に受け続けるのです。母もジェイクも、誰かが「女性の名前が次から変わる」と言わなくてもみんなの認識が一斉に変わっていきます。想像の世界だから、それで構わないのです。

しかし女性だけは違います。想像の世界の認識と女性の認識は独立しています。

だから、ルーシーがルイーザになったりエームズになる事に、女性だけは付いていけず違和感を覚えます。

女性が常に世界の変異に敏感なのは、彼女の自我が想像の世界から独立しているからなのです。

しかし、彼女自身が気が付いていない変化もありました。

それは彼女の服装です。

服装

実家へ向かう時には暖色系だったコート、マフラー、ニットが、実家を出た時には全てが寒色系に変化します。

これは恐らく、女性の心情を表しています。

実家に行くのを躊躇い、不安を抱えていた女性は、最終的に年老いた両親へのジェイクの優しさを見て、悲しみを感じるように変化します。

そのような心情が服装に変化を与えていたのだと考えられるのですが、周囲の世界が変化する事には敏感である彼女でも、自らの心情が世界に変化をもたらす事については気づけなかったようです。

変身

女性はジェイクとの会話で、まるでポーリーン・カエルになったかのように実在する映画の批評を語りだします。

ジェイクの部屋にはポーリーン・カエルの書籍が置かれていました。

もしかすると、用務員が読んだ書籍の影響が、女性の知識に反映されたのかもしれません。

しかしこのシーンでは、知識を述べているというよりは、ポーリーン・カエル自身になったかのように話しています。

ジェイクは映画『こわれゆく女』が気にっています。しかし女性は映画を否定します。

これは、ジェイクと女性の人格が別である事も表しています。

まるで意味のない会話が続いているかのようにも見えてしまう長いシーンですが、その中で重要なキーワードがありました。「統合失調症」です。

これは、『こわれゆく女』のメイベルを指しているのですが、「統合失調症」は歴史的に見て、別の病気を連想させる部分があります。

それは多重人格です。正しくは解離性同一性障害と呼ばれます。

多重人格は、現在でも最初は統合失調症と診断される事があるようです。統合失調症には、一部の症状が徐々に悪化していくという特徴があります。

そのため、症状が悪化しなければ解離性同一性障害へと診断が変わる場合があるのだそうです。

そのような経過を辿るため、統合失調症というキーワードは、多重人格を連想させる面を持ちます。

つまり、長々とポーリーン・カエルの批評を語らせ、更には変身まで連想させるこのシーンには、女性の存在が多重人格である事を想起させる意味があると考えられます。

変身を大げさだと感じるならば、より明確なシーンについて思い出してみましょう。

車中において「若い女性」が僅かな時間、別人に変身した事は見抜けましたでしょうか?

それは、「スペクタクルの社会」について会話しているシーンで起こります。

その会話の途中に、「若い女性」の女優が、架空映画「Order Up!」のイヴォンヌ役の女性に入れ替わるのです。見た目も声も。

あまりに自然過ぎて気づけないかもしれませんが、実際に別人となっています。

このように「若い女性」はときおり変身する事があるのです。

その理由は、女性が用務員の理想像であるという事です。すなわち、実在しない人物なのです。

人格は用務員とは切り離されている一方で、その姿は用務員の思考の影響を受ける事があるようです。

イヴォンヌに変身したのはなぜか。これは「スペクタクルの社会」に関連した会話にも表れています。

「スペクタクルはメディアの技術による視覚の嘘とは違う 物質化した世界観… このガラスを通して世界を見ろという既存の解釈だ そして僕らの脳は侵される」

「スペクタクルの社会」はギー・ドゥボールの著名な書籍です。日本の訳書では「情報資本主義批判」という副題が付いています。メディアを通じた世界の捉え方などについて書かれているようです。個人的にはこの映画を観て、最も興味を持った実在する書籍です。

上記に貼り付けた引用文にあるように、メディア=テレビを通して世界を見る事が会話されています。

これは、イヴォンヌが登場したシーンを思い出せば理解できます。

イヴォンヌは、用務員が休憩中に観ていた映画の登場人物です。その映画の影響は、「若い女性」に電話がかかってきたり、ジェイクと二人が出会った場所がバーではなくファミレスで、「サンタフェバーガー」を注文した、というように二人の記憶が入れ替わってしまいました。

それほどに、用務員の意識に与える映画の影響は大きかったのです。

車中での男女の会話の中に占める「映画の話題」の大きさを考えれば納得できます。用務員が観た映画は全て、彼の中に影響していたのです。まるで、「クズのような映画でさえ無意識に自分の考えに変化していく」かのように。

その影響の表れ方は非常に強く、「スペクタクルの社会」について語る時に「若い女性」の姿がそっくりそのまま「イヴォンヌ」に変身してしまったのです。しかしすぐに元に戻りました。

これは、用務員の得た情報が想像の世界に観念的に影響する事を意味します。

用務員が観た映画の影響力は、「若い女性」の見た目さえ、誰も気づかぬうちに変えてしまうほど大きいものでした。これは、「若い女性」の理想像の根源が、「映画」の中にあったのかもしれません。

用務員の人格と切り離されて作り出された想像の世界を動かす原動力は、用務員の認識や無意識よりも「映画」の影響が強かったというわけです。

ジェイクは一連の会話の最後にこのように言いました。

「客観的な現実は存在しない 脳の中にしか存在しない」

死の真相

以前の記事では、豚は安楽死の象徴であり、用務員は自らに安楽死を与えたのだという解説を行いました。

その時点では僕の認識不足があった事を今は反省しています。

豚が安楽死の象徴と捉える事が可能であるという点は今でも変わりません。

しかし、用務員は混乱によって死を選んだのではないと考えられる要素があるのです。

それは高校の駐車場で起こりました。

外にごみを捨てて戻ってきたジェイクは、

「蒸すね」

と言って車からキーを抜きました。これだと車のエアコンは停止します

寒い場所から急に暖かい場所に移ると、瞬間的に暑く感じる事があります。収縮していた血管は一気に拡張します。ジェイクが感じた蒸し暑さはこれが原因かもしれません。

その後、低体温症を気にするほどの長時間、車中で女性は単独で待ち続けました。

ミュージカルシーンを経て、用務員は仕事を終えて車に乗ります。すぐにエンジンをかけるのが妥当ですが、彼は鍵を差さずにシートに置きました。この時点で何か異変があるはずです。

続いて彼は、記憶が混乱します。雪道を疾走するシーン。両親が喧嘩するシーン。そして用務員は眼鏡と時計を外し全裸になります。

寒い環境で全裸になって凍死するというのは「矛盾脱衣」と呼ばれる謎の現象として知られています。

用務員だけを観察していると、自ら選んだように見えてしまいます。しかし、それに先立ってジェイクが暑がったり、女性が低体温症を気にするシーンの流れを考慮すると、用務員には記憶の混乱をトリガーに、想像世界からの情報の逆流が起こった可能性があります。

用務員には耳鳴りが起こり、暑そうに額をぬぐいます。

これらを総合的に考慮すると、用務員の死は自らの選択ではなく、本来はあり得ないはずの、想像の世界から影響が逆流してきたせいだと考えられます。

そのヒントは、キスシーンにありました。

第三者

用務員が若い女性自身でもなければ、ジェイク自身でもない事を示すシーンがあります。

それが、男女のキスシーンです。

二人がキスをした途端、二人は何かを見てしまいます。用務員が段ボールに穴を開けて、外から見つからないように窓から二人を覗き見しているシーンです。

ジェイクは、あの見た目は変質者に違いないと言います。しかし、それがジェイクから見えるはずはありません。外は吹雪き、車のガラスは曇っています。用務員の顔が見えるはずがないのです。

結論としては、この時の用務員は、想像の世界の外側から彼らを覗き見しました。そしてそれは、初めての経験です。

いったん、別の謎について思い出してみましょう。あの、謎のメッセージです。

メッセージの正体

映画冒頭で老人がつぶやいた内容と全く同じ、女性にかかってきた謎の電話。その内容はこうでした。

知りたいことは1つ 怖くて頭がおかしくなる 想定は正しい 不安が膨らむ ついに答えを出す時が来た 1つの答えを

この言葉は冒頭に語られている通り、用務員の考えです。その考えは電話という形を通して、女性の耳に入ります。

用務員の「想定」と「答え」とは何だったのでしょうか?

その答えは、これまでに解説してきた通りであり、このメッセージが解説を裏付けるものとなります。

それは、用務員は「想像の世界」を認識していないという事実です。

用務員は想像の世界を楽しんでいるのではなく、彼の自覚できない脳の中で、勝手に想像世界が動いているという事を示しています。

しかし、用務員はその世界の存在に気づいたようです。

それが、怖くて頭がおかしくなったり、不安が膨らんだという事に繋がります。その想定が正しいのか、その答えを出すために彼が行ったのが、世界に穴を開けて覗くという行為です。

用務員は自分の脳内に存在する想像の世界に穴を開けて、男女の行為を覗いたのです。

このシーンは、ジェイクが用務員自身ではない事の証明です。同一人物であれば、穴を開けて観察する必要はありません。用務員がその世界を体験するためには、穴を開けて覗くしかなかったのです。

しかし、世界に開いた穴は途端にジェイクと女性に気が付かれます。だからこそ、見えないはずの用務員の姿を二人は見てしまったのです。

このシーンがある事によって、想像の世界は用務員の認識からは独立した場所にあって、女性もジェイクも用務員が自覚的に想像していたのではない事が分かります。

全ては自動的に、別世界で起きていた事だったのです。

結末

凍死を迎えた用務員は豚の幻覚と共に校舎に戻ります。

豚は彼の「自由のない毎日」を象徴し、共に歩く廊下も「彼の理想が届かなかったつまらない毎日」を象徴します。

その豚と共に歩き、服を着せてあげると言われた後に登場するのが老後のジェイクの授賞式です。

この2つのシーンの連続にはもちろん意味があります。現実世界の用務員は、死を迎えるにあたり、想像の世界に入り込んだのです。

現実の終わりを迎えて、想像世界に自分の人格を統合しました。

これにより、ジェイクは唐突に老人となり、その他の想像世界の住人は全て老化しました。

ここで重要なのは、想像世界の主役が「若い女性」ではなくジェイクに変わった事です。

これは、それまで想像世界で用務員の理想像として描かれていた女性の「ジェイクを満たすための役割」が終わった事を意味します。

用務員は、理想的な女性と付き合うジェイクに自分を統合する事で、女性は主役から、客席で他のモブと並ぶモブキャラに降格したのです。

不自然な老化メイクは、用務員が仕事中に見た学生ミュージカルでの下手なメイクがそのまま採用されています。あの不自然な老化も、用務員の経験が投影された結果なのです。

こうして、用務員はジェイクと一体となる事で、理想である「若い女性」と長年連れ添ったという人生の全てを「受け入れ」て、人生の終着点を迎えます。

授賞式に立つのが用務員ではなく老後のジェイクであるのも、ジェイクの人生を用務員が受け入れた事を意味します。

彼の理想は、現実を捨てて想像世界に没入する事によって実現しました。思い通りに行かなかった彼の人生は、授賞式のステージでただ一人ジェイクの隣で見守る母の期待に応えるように、思い描いていた理想を迎えたのです。

謎のメッセージが電話を通して女性に聞こえていた理由は、用務員が語っていたのではなく、想像世界の存在に気付き始めた用務員の思考が、電話という形で世界に穴を開け、想像世界の主役である女性の耳に届いてしまったという意味が考えられます。

これが、謎のメッセージの正体です。

細かい解説

最後にいくつか、まだ解説していない部分を拾っていきましょう。

サイドミラーのメッセージ

女性が髪を直そうとして車中の割れた鏡をカメラ目線で覗くシーンがあります。

この時、サイドミラーに文字が書いてあるのが分かります。

引用:https://www.imdb.com/title/tt7939766/mediaviewer/rm489616641/

拡大したのがこちら。

引用:https://www.imdb.com/title/tt7939766/mediaviewer/rm489616641/

Objects in mirror are closer than they appear

和訳すると、鏡に映るものは実際よりも近いですという事になります。

サイドミラーを見る人への注意喚起ですが、当然、意味もなく映すはずがありません。これは観客へのメッセージです。

要約すると、見た目よりも近いよという事です。その意味が表すものは一様ではないと思われますが、同時に女性は鏡を通してカメラ目線になります。

そこから、女性の目線は思っているよりも近くにあるというニュアンスが感じられます。こじつけるとすれば、女性のいる世界が用務員の脳内にある事を象徴しているのかもしれません。

アナログテレビ

用務員が自宅で観ていた小さなテレビ。アンテナが立ち、画面は4:3です。現在のデジタルテレビはワイドスクリーンであるため、このテレビは不自然です。

なぜかというと、アメリカでもアナログテレビの放送は2009年で終わっているからです。アンテナを立てても、何も受信できません。そのテレビでアニメを観ているのです。

これは何を意味しているのか?

実は、このシーンは想像以上に深い意味を持ちます。

以前の記事において、画面サイズが4:3の謎について解説しました。

それは、この映画が4:3のサイズである意味が、用務員の認識が反映されてワイドスクリーンが存在しない中の出来事であるからだというお話をしました。

それは、男女のシーンが現実ではない事のヒントの1つとして機能します。

しかしそれでは説明が付かない事もあります。

用務員シーンまでもが4:3である事の説明が付かないのです。

例えば、他の作品において、画面サイズの変化をストーリーに絡めたドラマがあります。(Prime Videoの『ホームカミング』など)

『もう終わりにしよう』では、画面サイズは4:3のまま変化しません。

画面サイズが変化すると、画面サイズに何か意味があると視聴者が気づきやすくなります。もしかすると、そのように分かりやすくなる事を監督が避けたかっただけなのかもしれません。それならばこの話は終わりです。

しかし、そこにも意味があるとすれば。そんな仮定に基づいた仮説である事をご理解ください。

すなわち、冒頭の老人のシーンは、想像の世界なのではないか、という事です。

これまでの解説では、用務員が現実の人間であり、「若い女性」は用務員の中の別世界にいるとしてきました。

しかしここでは、用務員も誰かの脳内の別人格なのではないか、という発想です。

その根拠は画面サイズだけであるため、証明力が乏しいですね。

それでも、女性が想像の世界ならば、更に用務員が想像であっても全く不思議ではありません。多重人格は、一人の体の中に複数の人格が生まれる状態です。

それを補足する若干の印象があります。

用務員のシーンにおいて、現代的なものが全く登場しない事です。

「若い女性」のニットは表裏が逆に見えるようなデザインで、近代的なファッションを感じさせます。

一方で、用務員の職場の学校にいる生徒たちのファッションは、全員がレトロテイストです。レトロファッションの流行は繰り返されますが、全員がレトロというのは現代らしさを感じさせません。

また、生徒たちは誰もスマホを持っていません。スマホは現代を象徴する分かりやすいアイテムです。それが一度も現れないのです。今時の子供が誰もスマホを手にしていないというのは不自然です。

これらを総合すると、用務員のアナログテレビとスマホのないレトロな学生たちからは、そこが現代ではなく想像された古い時代を思わせます。

ただし、1つ矛盾があります。

休憩中の用務員が観ているのはテレビではなく、DVDです。手元にパッケージがあります。

つまりこのシーンだけは、レトロではありません。

ジェイクの部屋にもDVDがあります。これは、誰かの経験したものが投影されたのでしょう。

となると、用務員の休憩シーンだけが異質になります。レトロ尽くしの用務員の生活。それなのに、休憩シーンではDVD。

もし休憩シーンだけでも画面サイズがワイドになれば、矛盾はなくなります。

しかし、別の言い方で片付ける事ができなくもありません。想像の世界なら、想像主の認識の変化で世界は書き換えられるからです。

架空の映画がDVDである事を除けば、用務員の全てのシーンはレトロであり、最大のヒントはアナログテレビです。

スマホが登場する現代において、あのテレビが何かを受信する事はありえません。

また、

冒頭のシーンが特殊である理由もあります。

窓から地上を見下ろす老人と、地上から窓を見上げる女性。

この映画の中で、用務員と女性が唯一、お互いの存在を認識する瞬間です。(校内の対面を除く)

この点だけを切り出して考えると、用務員シーンが全てレトロというのは考え過ぎである一方、冒頭の自宅シーンでの用務員だけは、想像の世界の老人である可能性があります。

そのように考えた場合、ここでの特殊性はいくらか妥当なものとなります。

つまり、本来の用務員は現実世界にいるのですが、冒頭の自宅にいる老人は、想像世界にいる別の人物だという事です。

その証拠として、女性と老人はお互いを意識しました。これは、二人が同じ世界にいる事の表れです。

この場合の主体的な人物は3階層で存在する事になります。

  1. 現実の人物である想像主(想像世界に気づいていない)
  2. 想像の世界の中
    (1) 女性を想像する老人
    (2) 老人の想像の産物である「若い女性」

この仮説に従って言えば、「若い女性」は用務員の理想像から生まれたのではなく、ナイトガウンを着ていた老人の想像の人物と考えられる事になります。

重層的になりすぎて非常に分かりにくいお話となっていきますので、ここら辺の解説はここまでにしておきたいと思います。もし会話したい方がいらっしゃいましたら、ぜひご連絡下さい。まだお話しのネタはたくさんあります。

謎の家

用務員が全裸になって死にかけている時、奇妙なものが映ります。

それまでに全く見覚えのない、木々に囲まれた一軒の家です。

これが何なのかに気づくのは難易度が高いかもしれません。

これは、用務員の記憶にある、「本物の実家」です。

家の形は同じであるものの、建っている場所の環境が全く異なります。

想像世界では、羊と豚が飼われていました。玄関には車を寄せられ、道路も近くにありました。これらが、謎の家の周りには全くありません。

近くに道路がなく、木々が密接しています。家畜小屋は隣接していません。

これは非常に重要な視点をもたらします。

つまり、羊や豚は、存在しないものなのです。

実家は家畜を飼育していなかったのでしょう。

そうすると、羊や豚は、用務員の観念から生じた象徴に過ぎない事になります。

それが意味するのは、用務員の閉鎖的な心情に関連する人生の不自由さです。

そのように家畜は用務員の人生への不満を象徴したものであるため、豚の調味料入れなどを見た時の女性の反応が非常に不愉快になるのでしょう。

豚のエピソードは存在せず、象徴に過ぎなかったのです。

謎の言語

実家に入ってジェイクが女性にスリッパを渡すシーンで、謎の言語が登場します。

日本語字幕では字幕の表示がありませんが何かをジェイクが言っています。

試しに英語字幕に切り替えると、「スペイン語の会話」と表示されます。他にポルトガル語も試しましたが、日本語字幕と同じで何も字幕が表示されませんでした。

こうして、このジェイクの発言は字幕の補助がない謎の発言となっているのです。

ここで会話されている単語の1つに、「ZAPATILIAS」が聞き取れます。これはスペイン語です。英語字幕の情報と一致します。

では、これは一体なんでしょうか?

そのヒントは、用務員が教室でガムを取り除いているシーンにあります。

ホワイトボードには、スペイン語で靴の種類がいくつか書かれています。

その中の1つに「ZAPATILIAS」があります。意味は、スリッパです。

用務員が教室で見たスペイン語の知識が想像世界に反映され、ジェイクがスペイン語で(恐らく)スリッパをどうぞ、のように言ったのかもしれません。

オクラホマ!の意味

日本人には分かりにくい点ですが、映画の舞台である「タルサ」は、オクラホマ州の町です。ミュージカル「オクラホマ!」の歌はオクラホマの正式な州歌に採用されるほど、アメリカで親しまれたミュージカルです。

そのような背景から、タルサでも「オクラホマ!」の上演はたびたび行われてきたのでしょう。

これが、用務員が最も「オクラホマ!」に詳しい事情です。

ジミー

登場するといつも体を振って水滴を払おうとする犬のジミー。

女性が目を離すと突然消える事もありました。

ジェイクの部屋には、ジミーの骨壺と思われる物があります。

ジミーが本当に過去に飼われていたのか、想像世界のモブでしかないのか、定かではありませんが、実家のシーンの時間軸は非常に乱れているため、何が本当の思い出なのかが分かりません。

ジミーも、本当にいたのかは分からないのです。

エームズ

女性がエームズと呼ばれた時の女性の発言が日本語では分かりにくいと感じたので解説します。

エイミーの事?私の名前でもあだ名でもない

エームズと呼ばれたのに「エイミーの事?」というのは唐突です。英語では、

Is that short for Amy?

と発言しています。「エームズってエイミーの短縮版?」みたいな感じです。

エームズの綴りは、Amesです。エイミーはAmy。

英語文化ではこのようにして愛称が付けられる事があります。エイミーよりエイムズが短いのかは直感的ではありませんが、最後を伸ばすより伸ばさないほうが短いという事でしょうか。

というわけで、

女性はエームズと呼ばれる事に心当たりがないものの、「エイミーの事か?」と思って心の中で呟いたのでした。エームズもエイミーも、自分の名前でも愛称でもないのに、と違和感を覚えるシーンなのでした。

原題の意味

最後に紹介するのは原題の意味です。

女性は、どうしてか分からないけどジェイクとの関係を終わらせようと思ったのだと言います。

どうして、ジェイクとの関係を終わらせようと思ったのか?

これは、あの謎のメッセージに関連しています。

謎のメッセージは、用務員が自分の中に想像の世界が存在する事に気が付いた事を表しています。

そのような直感は、別人格である女性にも、ある考えを生みました。

それは、ジェイクは実在しないのではないかという無意識の発想です。

そのような事が直感されるため、女性はその関係を「もう終わらせよう」と思ったのだと考えられます。「先がないから」です。

そして、

「I'm Thinking of Ending Things」というタイトルの、アイ=私とは誰の事なのでしょうか?

そのフレーズを繰り返し発言しているのは「若い女性」ではありますが、謎のメッセージと絡めると、用務員自身の考えでもあると言えるでしょう。

用務員と女性は、別の人格でありながら、二人が1つの脳内に存在するのだという事を、薄々感じていたのだと想起させるタイトル。それが『I'm Thinking of Ending Things』なのです。

邦題には反映されませんが、原題ではThingsが複数系です。これは、『もう終わりにしよう』というフレーズでは言い表せていません。より正確には、「複数の事柄を終わらせる事について考えている」なのです。

それは、ジェイクとの関係を終わらせるだけではないのだという事が分かるでしょう。

予言

これが最後の解説です。

これまでに、用務員さえも想像の世界の人物なのではないか、という視点をご紹介しました。

それに意味を持たせるような、隠れた予言があります。

イザヤ書1章18節

用務員が出勤中、イザヤ書の引用がラジオから流れます。

お前たちの罪が緋色でも 雪のように白くなる

これにも意味があるのはお気づきでしょうか。

緋色が白くなると言っているのですが、

実は、

用務員の車は緋色です。

そして用務員の車は最後に、

雪に包まれて白くなります。

つまり、

ラジオから流れたイザヤ書は、

用務員の最後を予言していたのです。

なぜラジオが結末を予言できたのでしょうか?

その意味については、皆さんのご想像に委ねたいと思います。

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